石原由貴の博士研究

可動式ミラーボックスを用いた運動錯覚に関する研究

石原由貴

博士研究の内容を簡単に説明してください。
博士研究ではリハビリテーションなどで用いられている「Mirror visual feedback」という鏡の錯覚について扱いました。この錯覚では両腕の間に鏡を立て、鏡面に片手を映し出し, もう片腕を鏡の裏側に隠します。このとき、一見すると鏡の中には、鏡の裏側に隠された自分の手そのものであるかのようなリアルな手の像が映し出されます。この状態で鏡の手前側の手を動かすと、鏡の中の手の動きが、本当は動いていないはずの鏡の裏側に置かれた自分の手の動きであるかのように生き生きと感じられます。


この研究では一般的なMirror visual feedbackとは異なり、装置内の鏡を左右に動かす構造を作り出すことで、鏡の手前側の手を動かさずとも、鏡の中の手が動いている様子を提示することを可能にしました。実はこの鏡の錯覚によって引き起こされる運動錯覚は視覚の影響だけではなく、鏡の前で動かしている手からの筋肉の感覚の影響によって引き起こされている可能性があり、手を全く動かさない状態で運動錯覚を誘起できるのかは分からないとされていました。しかし、今回研究で使用した新しい装置を用いることで、鏡の前に置いた手を動かさずとも、鏡の動きと共に作り出される視覚的な手の運動提示のみによっても、運動錯覚を起こすことが可能であることが分かったのです。
実験によって分かったことは、鏡の中に映し出されるバーチャルな手の運動と、実際に自分自身の手の運動が矛盾した方向へと動いた場合には、おおよそ実際の動きの3倍の速度で鏡の中の手が動くことで、実際の手の運動感覚を打ち消すことができることです(やはり実際の動きから得られる筋肉の感覚の方が、視覚よりも「動いた」という感覚に対して重要視されるようです)。


また、鏡の裏側の手が握る持ち手と同じ持ち手を鏡の前に置いた状態では、例え鏡の中に手を映し出さない状態であったとしても、持ち手のみが動く様子を見ることによって、鏡の裏側の手が、持ち手の視覚的な動きにつられて動く感覚が誘起されることが分かりました。この鏡の動きに応じた運動感覚の変調は、左右の持ち手が一致していない場合には見られません。つまり、鏡の裏側の手からの触覚的な手がかりと、鏡の中に映し出される持ち手の視覚的な手がかりとが一致することによって、鏡面内に手のイメージを立ち上げ、その手がかりが連続的に変化する様子を捉えることが、運動錯覚の誘起に重要であることが示されました。
芸工での研究生活について教えてください。
私は岐阜県大垣市にある(株)GOCCO.という会社に勤めながら博士課程に進みました。毎週月〜水の3日は会社、木金の2日は学校というように日程を振り分けて通っていましたが、実際にはどちらの日も打ち合わせや論文等で双方の用事が混ざる場合が多かったです。とはいえ、物理的に違う場所で作業をしますので、どちらも週初めに行くと、居ない間に何かしら変化があったりしていて…毎週、軽い浦島太郎の気分で通勤・通学できたのは、良くも悪くもフレッシュな気持ちになりました。
また研究生活中には実験、そして展示用に木工や電子工作が必要になるシーンが多々あります。中でも、木工室は特に重宝させてもらいました。作りたいものの相談も親身に聞いてもらえますし、ホームセンターで扱っているサイズの木材であれば大概加工できます。(そして、恐らくどこよりもクリーンな木工室であると思います。)電子工作の方はゼミ室で心ゆくまでじっくりと作業できます。大学院生は研究棟に24時間入り込めますので、昼間切った木材を組み合わせながら、好きな時に実験装置や作品を作り続けられます。

今後の展望について教えてください。
今回の研究で使用した可動式ミラーボックスは、鏡の手前側の手の運動の影響を受けず、視覚の効果に焦点を当てた運動錯覚を研究する上で使用できる、新しい実験プラットフォームとして活用することができます。特に鏡面裏側の手の運動錯覚の誘起に必要な視覚情報がどのようなものなのか調査するにあたり、鏡に提示する物を変化させることで簡易に実験を行うことができる点には、大きな価値があります。また、手を動かさずとも鏡の中の手を動かすことができる特性を生かし、怪我等の理由によって両手とも動かすことができない場合にも使用できる、リハビリテーションの道具に転用することができる可能性があります。
また展望からは少しずれますが、今回の可動式ミラーボックスをテーマとした作品を作りたいです。研究室では毎年研究室で着目している錯覚を用いた作品及び実験装置の展示を行っていますが、錯覚から得られる体験の面白さ・奇妙さを味わってもらう非常に良い機会と捉えています。装置をよりコアな体験へと落とし込むことができる作品形式へと昇華することで、論文とはまた違った、体感としての可動式ミラーボックスのおかしみを提供したいですね。
もう一つ、会社に行きながら育ってしまった意識ではあるのですが、(卒業してしまうのでどうしても)研究室で培った「からだの錯覚」という目線をビジネスとしてどう応用できるのか、という課題感を感じています。奇しくもウェルネスという語が重要視される近年、自分自身の状態を平常の状態から異常な状態に切り替えるこの分野の研究は、単に面白い錯覚という枠組みを超えて、冷静に自分自身の状態を見つめるための手段の1つとなり得るものです。自分自身に引き起こされるこうした錯覚に対する「面白いこと」「奇妙なこと」「気持ち悪いこと」以上の価値を、ビジネスという明快な文脈で再度語ることは、これらの錯覚が持つ新しい価値を発見する上でも重要であると考えています。
審査委員
横山清子(委員長)、辻村誠一、塙大、小鷹研理(主査)
学位論文題目
可動式ミラーボックスを用いた運動錯覚に関する研究
審査結果(抜粋)

提出論文は、上肢の運動錯覚における視覚要因の効果を同定することを目的とし、新たに提案する「可動式ミラーボックス」を用いた二種類の心理実験によって、視覚情報である鏡像の動きが運動錯覚を引き起こすことを複数の観点から検証したものである。従来のミラーボックスを用いた心理実験では、運動錯覚における視覚要因の寄与を他の感覚から分離して検証できないことが課題とされてきた。この点を解決するものとして、本研究では、被験者の両手が静止状態にあってもなお鏡像に動きを与えることが可能な、独自の実験装置が提案される。恒常法を適用した第一の実験により、鏡像の動きを唯一の変動要因として上肢の運動錯覚が誘導されること、および外観の異なる手の鏡像を呈示することで錯覚効果が減退することを、主に主観的静止点の統計的解析を基に明らかにしている。さらに、第二の実験では、鏡像から手のイメージが除外された場合でも、持ち手に関する視触覚情報が一致することで運動錯覚の効果が高まることが示されている。

本学位研究は、認知心理学分野での運動錯覚に及ぼす影響を「視覚」のみの単独変動要因に分離することを可能とした実験系の提案と、運動錯覚の機序に関する基礎的知見を得たものである。さらに、この研究成果はVR等におけるインタフェース設計への応用展開が可能であり、芸術工学分野の基礎研究として意義深いものといえる。したがって、申請者は、博士(芸術工学)の学位を授与するに値する能力と学識を有するものと判断し、最終試験の結果を合格とした。

取得日
2020.3.20
学術論文
石原由貴, 小鷹研理: “Kinesthetic mirror illusionにおける「手のイメージの想起性」の影響” 認知科学, Vol.26 No.1, 2019.3 [LINK]
Yuki Ishihara, Kenri Kodaka: “Vision-driven kinesthetic illusion in mirror visual feedback” i-Perception, 9(3), 2018.6 [LINK]
その他の主な業績
石原由貴・小鷹研理:「Kinesthetic mirror illusionにおけるグリップ感の相同性の影響」, 日本認知科学会第36回大会, ポスター, 静岡大学, 2019.9
石原由貴・小鷹研理:「kinesthetic illusionの誘発において鏡面上の手のイメージが単独で果たす役割」, 日本認知科学会第35回大会, ポスター, 立命館大学, 2018.8
石原由貴・森光洋・室田ゆう・小鷹研理:「HMDを介したポールを引っ張り合うことによる腕が伸縮する感覚の誘発」, 情報処理学会シンポジウム・エンタテインメントコンピューティング2017, インタラクティブ発表, 東北大学, 2017.9.16(プレミアム枠) UNITY賞
石原由貴・小鷹研理:「Mirror Visual Feedbackを活用した鏡の移動による上肢の移動感覚の変調」, 第21回情報処理学会シンポジウム・インタラクション2017, 口頭発表, 明治大学, 2017.3.4
石原由貴・小鷹研理:「デスクトップ・プレゼンスのための身体変形感を誘起する背面タッチインタフェースの研究」, 第19回情報処理学会シンポジウム・インタラクション2015, インタラクティブ発表, 東京国際交流館, 2015.3(プレミアム枠) インタラクティブ発表賞
記事紹介
2018.06 「鏡が動けば手も動く?鏡の動きによって生み出される手の運動錯覚を発見」[プレスリリース]
2018.06 「鏡の左手、脳では右手?動かさなくても「動いた」錯覚 名市大が実験」[中日新聞ニュース]
2018.06 「固定された手、動かしたように錯覚 名市大大学院が鏡を使った研究結果を発表」[名古屋テレビ]
2018.06 「鏡の動きによって生み出される手の運動錯覚を発見」[POST]
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